次にご紹介する文章は、小西一三氏・由紀子氏が運営するサイト「小西堂」様に掲載されていた内容を、両氏のご厚意により、原文のまま当サイトに移転掲載させていただいたものです。両氏をはじめ、原稿を執筆・ご提供いただきました関係者の皆様方には厚く御礼を申し上げます。

ユニチカバスケットボール部を経て

前半は、雑誌「ポカラ」1999年3・4月号のルポルタージュ特集「この20人の生き方に学べ」で紹介された小松ひとみについての原稿をご紹介します。
著者は秋田在住のライター・南都洋子さんです。

※南都洋子さんは秋田生まれ。地元タウン誌を経て、87年からフリーランス。広告、ラジオのコピー、PR誌、雑誌のほか、中央紙の地元契約ライターとして執筆する。根っからのローカル版街ダネライター。

ユニチカバスケットボール部。

日本のトッププレーヤーが集まるこのバスケットチームを引退して17年。
コートを全力疾走していた日々より、
カメラを手に野山を歩く歳月の方がずっと長くなった。
膝の故障に苦しみながらも、バスケットボールを追いかけた選手時代。
ボールをカメラに持ち替えて、第二の人生が始まった。

バスケット選手から自然派カメラマンへ

バスケット選手からカメラマンとなった小松ひとみさんの半生を「大転身」という人も多い。しかし彼女は笑ってこう語る。

「転身した気がしないんです。バスケットを卒業して写真の道に進んだと思っているから。夢中になるとそればっかりで、行く先々でたくさんのすてきな人に会ってるし、不器用さも相変わらずで」

才能や体力の限界、思わぬ怪我や故障、または周囲との軋轢(あつれき)等々、一流といわれた選手らがチームを去る理由は数多い。その中で小松さんは、自らの幕引きをあえて”卒業”とした。しかし彼女の選手生活はそれほど順風満帆なものではなかった。

土下座で両親を説得し実業団選手に

バスケットを始めたのは高校に入ってからだった。中学時代はテニス部で県大会準優勝の実力。当時既に173cmの長身だった小松さんは、そのスポーツセンスを見込まれて、バスケット部監督から強い勧誘があった。

その頃、角館南高校女子バスケット部は、県内で優勝候補の筆頭に挙げられる強豪チームであった。その中でめきめきと頭角を現した小松さんは、主力選手として活躍。高校三年の国体には県代表選手にも選ばれ、優勝もした。卒業後は大学に進学して体育教師を志望していたが、その才能を実業団チームは見逃さなかった。

特に、全日本代表チームの監督率いるユニチカのスカウトは精力的だった。既に大学への推薦入学も決まっていたので断るつもりだったが、「一度練習を見においで」と送られてきた航空券がもったいないので、チームの本拠地大阪に練習を見に行った。卒業旅行気分で出かけていったのだが、そこで、実業団の力と技、意識の違いに圧倒される。何より、「ぜったい全日本選手にしてやる」という尾崎正敏監督のひと言に心を動かされた。

一転して実業団入りを決意し、猛反対する両親にも土下座で拝み倒した。「やりたいことをやってこい。やりとおして帰ってこい」という父母の言葉に送られて、大阪に発ったのは卒業式の二日後である。

入団した最初の年にベンチ入り。新人としては異例のエントリーである。しかし、合宿所の共同生活では、掃除、洗濯、食事づくり、体育館での練習の準備や後片付け、先輩の使い走りと、あらゆる雑用も新人のお仕事。故郷の言葉の三倍のスピードとインパクトで飛び交う関西弁に、語学留学生さながらのプレッシャーもあった。しかし、それも練習の楽しさで吹き飛ばした。チームは連勝記録を次々更新していた。

うまくなりたい。もっと試合に出たい。その夢は、一生懸命やってさえいれば、かなうはずだった。ところが、である。

泣きながら母にかけた電話

入団して2年目に、突然左膝じん帯の故障。切れる寸前の状態だった。あらゆる病院を回り、鍼や灸などの東洋医学も試したが、いっこうに治らない。当時は「気合で直すのが体育会系のお約束」とばかりに、その膝をかばって練習を続けるうち右膝もやられた。治療に奔走し、練習に出ても、コートの傍らでひとり筋力トレーニングというのが主な練習メニュー。そんな毎日が続く。早く治して思いっきりバスケットがしたい、という思いだけが支えだった。

1年が過ぎ、2年目にはそんな気力も自信も尽きかけた。
「もういやだ、家に帰りたい」と泣きながら母に電話をしたことがある。
「心まで病気になったか」
と一喝された。いつもやさしく見守ってくれた母の意外なひと言に、目が覚めた思いだった。

実業団選手になりたくて必死で両親を説得した自分。明日は大阪という夜、母は「本当は自分も大学に行きたかった」と、戦時中の娘時代を語ってくれた。しかし、決意は変わらなかった。膝との闘いをやめることは、バスケットを諦めることだ。自分の気力はそこまで病んでいない。まだやれる。新たな覚悟を決めた。

そのまま退団していたら、ずっと挫折感を背負っていたかもしれない。そんなとき訪れた2度目の転機は母が導いてくれたものだと、今も思っている。

選手、コーチ、マネージャーの三役に奔走

入団して4年目、監督の勧めでプレーイングマネージャーになった。午前中はユニチカ社員として働き、午後はその日の練習スケジュール、メニュー調整、事務処理などをこなす。午後3時から7時の練習では選手、コーチ、マネージャーのひとり三役。その後も深夜まで監督との打ち合わせ、日誌などを仕上げるともう朝方。平均睡眠時間は4時間という、慢性的な睡眠不足状態が続いた。会社と合宿所、体育館の3地点をひたすら駆け回り、休みの日も電話もそばを離れられなかった。遊びに出る暇もない代わりに、悩みも迷いも思いつく時間もない日が過ぎていった。

そして、昭和55年には世界選手権に日本代表マネージャーとして初出場。結果は5位。チームにとってベストとはいえないが、膝の故障と闘いながら過ごした4年の歳月の中では、大切な記録となった。そしてこのときの監督のひと言で、永遠に続くと思えたジェットコースターのような日々に、出口を見つけた。

 監督は、
「やっと約束が果たせたな」
と言ってくれたのだ。入団のときの約束を、覚えていてくれたのである。両膝を痛め、消化試合にしか出られなくなっていた自分を、監督がここまで引っ張ってきてくれた。
「これで卒業できる」とそのとき初めて思った。

その2年後に退団。8年間の選手生活に終止符を打つための勇気はいくらあっても足りなかった。ひとりでは怖いから、同期で残ったふたりの仲間と一緒に監督に退団を申し出た。今思えば高校生みたいだけれど、そんときは必死だったという。その後、監督を囲んで飲んだとき、「もう怒れる奴がいなくなるな」と言われた。これが卒業式なのだと思った。

ロングバケーションときどき助手

本当に高校を卒業した気分だった。
早速角館の実家に帰った。初めのうちはチームの要請でときどき上京し、敵情視察などに駆り出されることはあったが、大部分はロングバケーション。周囲の人たちが気遣ってバスケットボール指導者の就職をいくつか紹介してくれた。しかし、一度卒業したバスケットにはもう興味が湧かないので、丁重に辞退した。

24時間バスケット漬け、男女交際も外泊も禁止、遊ぶのも飲むのも合宿所内という生活、極限の睡眠時間からの解放は、まさに「羽目をはずす」の見本。出遅れた青春を力いっぱい満喫した。友達と街を歩き、旅行をし、たくさんの人と出会い、恋もした。その何もかもが楽しかった。

東北を中心に全国の自然を撮り続ける写真家、千葉克介さんに出会ったのもそんなときである。幼なじみがフィルム整理などのバイトをしていたのがきっかけで、花桃(はなもも)の群生の撮影で福島についていったのだ。

そこで目にした花たちは、驚くほど輝いていた。「すげェな」と思った。もちろん花を見たことがないわけではないが、そんなに美しい姿は初めてで、涙が出てきたという。自然の力に打ちのめされた。もっと見ていたい。それが、始まりとなった。

最初は撮影があるときだけの臨時バイト。荷物運びのようなものである。1年ほどして、常勤のスタッフとなった。当時は普通の写真屋を兼ねていた事務所で店番をし、撮影で人手が足りなければ手伝う。重い機材を背負ってひょいと崖を登り、息も切らさずに山道を歩く。そのバスケット仕込みの体力とガッツは、師匠と仰ぐ千葉さんや周囲の人たちを唸らせた。

機材を運び、カメラ調整、フィルム交換、雑用をして、大自然が描き出す最高の一瞬に立ち会う。北海道から沖縄まで、全国各地の撮影に同行。冬の岩手山で8日もキャンプに閉じ込められたり、激流に流されかけたこともある。そのすべての風景と感動、たくさんの人たちとの出会いが、バスケットを絞り出してしまった心に染み渡っていく。その場にいられるだけで嬉しかった。

トイレは外でも平気、どこででも寝られる、何でも食べられる、という女性写真家の必須科目も修得。持ち前のガッツにも磨きがかかった。

師匠からもらった一眼レフが最初のカメラとなった

れでも当時、写真家を目指しているわけではなかった。ただ、好奇心と実益を兼ねた居心地のよさに浸っていた。しかし、小松さんの気持ちにだんだん変化が訪れる。撮影を手伝っているとき、いつの間にか、何度も心の中でシャッターを切っている自分に気が付いたのだ。そして、
「先生、私にも撮れるべか」
という言葉が、ふっと口をついて出た。
そのとき、師匠から手渡された一眼レフが最初のカメラになった。
それからが悪戦苦闘の始まりである。思ったとおりには撮れなくて、もっとたくさん、もっと別の何かという思いでシャッターを切り続けた。夜明け前の山を歩いていても、ファインダーを覗いていれば怖さも感じない。カメラを持って3年後にはエージェント2社とも契約。アシスタントの仕事の傍らとはいえ、自分の写真に熱中し始めた。

しかし、何を撮るか、どう撮るかまでは師匠に教えてもらうことはできない。
「俺と同じ写真を撮ってどうする。もっと別の視点で見てみろ」

写真家を目指したときから無言で見守り続けてくれた師匠が、そうアドバイスしてくれた。何をどう撮りたいのか、自分のテーマは何なのかと自問自答する一方で、師匠みたいな写真というイメージが頭から離れなかったのである。師匠の言葉に反発しながらも、遠くばかり見ていた自分の目が、次第に足元にも脈々と息づいていた生命の力、当たり前の地球の営みを見つめるようになった。<br>
 無理に高い山や深い渓谷に入らなくても、撮りたいものはここにある。食べていけなくても写真だけは撮り続ける、そう決めた。

カメラを 持つこと。自分だけのテーマを持ってそれを発表し、商品として通用するものをつくること。写真集として発表すること。そのすべての道を開き、自分の写真探しに忍耐強く付き合ってくれた師匠。小松さんは、また名監督に出会ったようだ。

滋養満点、ひとみ流撮影紀行

日本一、世界進出を目的に全力疾走したバスケット時代が、飛行機や新幹線での旅行とするならば、写真はゆっくり歩いて道程のすべてを心に納める旅だと思う。道々の風景をすべて、町並みやそこにある暮らし、それぞれの土地に住み、行き来する人たちも、彼女にとっては滋養満点なのだ。

自然保護が取り沙汰される国立公園や原生林を同じ輝きを持って、命の花を咲かせる土手や道端の草木がある。そのひとつひとつとちゃんと向き合おう。ゆっくり歩いて、見逃さないように見ていこう。小松さんが掴んだ、彼女なりの写真の撮り方である。

そう考えると、自宅の周囲100メートル四方もフィールドワークの舞台になってきたという。家の周りには、見なれた野草の群生がある。そこを歩いていると、ときどきその中のひとつが急に浮き上がって見えるときがある。まるで雑踏の中で恋人と出会う感じだ。一瞬でシャッターチャンスが決まるときもあるが、弁当持参で座り込み、何時間も粘ることもある。

実家が商売で忙しかったこともあるが、子供の頃は暗くなるまで外で遊んでいた。男の子たちと基地をつくり、山菜やタケノコが採れる近くの野山は絶好のロケーションだった。その遊び場にかつてのわんぱく娘が帰ってきた。カメラを持っているが、好奇心いっぱいで歩き回る姿は昔と同じである。

小松さんの住む角館は今、深い深い雪の中に静まり返っている。東北人は雪に慣れているというが、ひと月も過ぎれば、「見慣れる」を通り越してすっかり飽きてしまう。

年々仕事も忙しくなり、師匠の運営する黎明舎の庶務係、マネージャー、写真家としての仕事を兼ねる毎日。今は雪かきが1日の最大の仕事という小松さんにとっても、春を待ち侘びる気持ちは同じ。今年の春は一番に雪割草を撮ろうと思っている。

福寿草、カタクリ、ふきのとう、名残の雪のせせらぎや、柔らかな陽射しに映える若芽。小松さんにとっては書き入れ時だ。この先もずっと、彼女は温かい目でそんな小さな命を追いかけていくのだろう。
「春はゆっくり寝ている暇もない。下ばかり見て歩くから、また腰を痛めそう」と、楽しそうに笑った。

著者:南都洋子氏

この文章は、雑誌「ポカラ」1999年3・4月号のルポルタージュ特集「この20人の生き方に学べ」で紹介されたものです。

この後のことは、小西一三氏が執筆してくださいました。次ページの「これまでのこと-II」でご覧ください。

 

カメラマンとして独立