ここからは、その後の小松ひとみについて、秋田在住のフリーライター・小西一三さんがまとめてくださいました。小西一三さんのプロフィールは小西堂さんのサイトをご覧下さい。

 カメラマンとして独立

平成11年10月小松さんは17年間のアシスタント生活に終止符を打ち、カメラマンとして独立した。仕事の当てはまったくなかったが、「自分の撮りたい写真を思いっきり撮り続けてみたい。」ただそれだけだった。

金がなくなったら、コンビニでバイトをすればなんとかなる。体力には自信があるので、短期間だったら工事現場で働いてもいい。フィルムと現像代、それにわずかな生活費だったらアルバイトでなんとかなる。この楽天的な性格とバスケットで鍛えた体力が小松さんの強みだ。

独立して自分なりの写真を撮ってみたいーそう思い始めるようになったのは平成8年。地元の公民館を会場に開いた、亡き父が描き残した油絵と彼女の写真による「親子展」がきっかけだった。それ以前、師匠の口添えにより、写真集「光彩」を出版していたが、いわゆる写真展は初めて。小さな会場でわずか3日間の開催だったが、自分の写真を見てくれた人の反応や、感想を述べてくれた友人たちの言葉に、写真集出版以上の興奮を覚えたという。

退職金とわずかな貯金をはたき、カメラなど最低限の機材を買い揃え、いつ金になるか、わからない写真を撮り始めた。以前から撮りたいと思っていた場所、植物などを撮れば撮るほどフィルム代がかさむ。現像所から送られてきた写真を見て、あれこれ批評してくれる人もいない。

そんな時、ギャラは少ないが連載になりそうな仕事が飛び込んできた。それはアシスタント時代に知り合った編集長が発行する雑誌からで、テーマは人間。ある酪農一家の一年の暮らしを追い続けるという仕事だった。小松さんはそれまで人物を撮ったことはなかったが、「自信がないので遠慮させてもらいます。」といえる状況ではなかった。もちろん教えてくれる人はいない。その分野のマニュアル本や写真雑誌で勉強しながら撮影を始めた。

撮った写真は、現像後、すべて出版社に送った。「だめだよ、ひとみちゃん。逃げながら撮ってるよ。もっと、真正面から向き合わなきゃ、家族の生き方が伝わってこないよ。」車で片道4時間近くも走り、再び撮影。悩みながらも撮影に熱中していった。

ハエをも食べてしまった。

実は筆者は、この家族の取材にライターとして同行していた。あれは暑い盛りの時の取材だった。牛のフンを踏んづけながら牛を追いかけ、なんとか撮影も完了。取材後、その家の奥さんが昼食にうどんを作りごちそうしてくれた。

帰りの車の中で小松さんが突然聞いてきた。「小西さんのうどんの中に、ハエ、入ってなかった?」「そんなの入ってる訳ねえべ。」と私。小松さんのどんぶりの中にハエが一匹入っていたというのだ。取材先は酪農家だけに、牛のフンに寄ってくるハエも多い。調理途中に入ったものなのか、運んでくる途中に入ったものなのか、それはわからない。神経質な人間はハエを見ただけで一口も食べられないものだが、小松さんはハエごと全て食べた。一滴の汁も残さずにだ。

私だったら上手にハエを捨ててから食べる。なぜハエを取り除かなかったのかと聞くと、奥さんに気を使わせたくなかったからだという。その場では奥さんも一緒に食べていた。ハシでつまんで捨てるにも、置く場所がなかった。だからハエが入っていたことがわからなくなるように、汁ごと飲んでしまったというのだ。このように小松さんは身長173cmという大きな体(失礼)に反比例して神経が細やか。周囲の人間への気配りもなかなかのものがある。

その一方で三半規管の一部が鈍感なのか、揺れる船にはめっぽう強い。これは日本海秋田沖の寒だら漁を取材した時のことだ。1月から2月にかけての底引き網によるタラ漁は、シケの合間をぬっての出漁となる。夏のようなベタナギはほとんどなく、シケが始まったといっても波はかなり高い。

我々が乗船した日、なんと船頭は船酔いで昼食は食べられず、青い顔をしながら苦しそうに仕事をしていた。そんな状況の中で、小松さんは寝不足で体調が万全ではないといいつつ、揺れる甲板の上を動き回り写真を撮り続けた。撮影が終わってからは、なんと乗組員と一緒になって甲板で魚の仕分けを手伝い始めるではないかー。

「あの大きいネエチャン、すげえなぁ。船に酔わねぇし、体力もある。オナゴの漁師になれるど。」と船頭はあきれてしまった。

漁の取材では失敗もあったという。独立した年の12月、秋田県八森町岩館での季節ハタハタ漁を取材した時のことだった。今時珍しい手こぎの木造船に乗り込み、網起こしのクライマックスを撮影していた最中、買ったばかりのコンタックスのカメラとストロボを海の中に落としてしまったというのだ。

「網からあふれそうになるほどの大漁で、そのハタハタを見ていたら感動のあまり頭の中が真っ白になってしまって?。気づいたらカメラが海の中に落ちていだっけ?。ほら、私、魚屋の娘だべ。魚を見れば血が騒ぐんだべな。」と小松さんは、あっけらかんとしたもの。幸いカメラは魚と一緒に引き揚げられたが、もちろん使い物にはならず。独立後まもない頃だったので金銭的余裕もなく、保険にも入っていなかったという。

時にはモデルも兼ねる温泉カメラマン

自分の撮りたい写真を撮り続ける一方、最近の小松さんは「旅の手帖」など旅行雑誌の仕事も多い。真面目で丁寧な仕事ぶりはもちろんだが、女性ならではの強みを生かしきっているからだ。

例えば温泉の撮影。混浴の露天風呂、男湯、女湯すべての写真が必要な場合、男性のカメラマンはその場で撮影の許可を得るまで、かなりの交渉時間を要する。宿の許可を受けたとしても、男のカメラマンが急に浴室のドアを開けようものなら「キャー、チカン。のぞき、助平!!」と大声を出され、最悪の場合はお湯をかけられてしまう。

ところが小松さんの場合、ニコッと笑いながら浴室のドアを開ける。「すみませーん、ちょこっと写真コ撮らへでもらっでいいですかーー?」と、彼女独特の、ちょっと間延びした口調で語りかける。現場が北東北であれば、ほとんど秋田弁。青森でも岩手でも、この秋田弁はほとんど通用する。

「おや、オナゴのカメラマン?ああ、いいよ。オナゴぶりいぐ撮ってけれな。」とばあちゃんたち。「ありがとう。今、カメラ持ってくるがら?。」ざっと、こんな塩梅だ。混浴でもこの調子、男風呂では男たちがポーズをとり始めるから笑ってしまう。

万が一、女湯に誰も入っていない時は、自らがモデルになる。構図と露出を決め、セルフタイマーを押してダッシュで湯船に入る、一枚撮るごとに少々露出変えるが、その都度風呂から上がってセルフタイマーを押し、再び湯船にダッシュとか。この撮影現場を想像すると思わず笑ってしまう。残念ながら、ポーズはいつも後ろ向きで、彼女の顔を見ることはできない。

今、小松さんが撮り続けたいと思っているのは、従来から撮り続けている自然の風景に加え、職人さんたちの手仕事だという。

「なるべくストロボや照明を使わないで、その作業の工程を自然光で撮りたい。そして、その職人さんたちの顔も。一流の職人さんって、本当いい顔しているもの。」

北東北の風景や自然の植物。山菜、キノコとそれを使った郷土料理。漁師の仕事や職人の手仕事。
「写真コ撮っている時が一番おもしろいなぁ。」という小松さんは、今日も愛車のトヨタ・ハイエースに布団と生活用品を積み込み、車の中で寝泊りしながら写真をとり続けている。


<了>

執筆:小西一三氏